NHK「ラジオ深夜便」2021年1月22日 放送 明日へのことば 川手昭二さん「住民参加のニュータウン 50 年」

都筑魅力アップ協議会副会長川手昭二さんの2021年1月に放送された「ラジオ深夜便 明日へのことば」でのインタビューを掲載します。

(注)この記録は、聞き手である林昭利ディレクターのコメント部分を除き、川手昭二さんのインタビュー部分を書き起こして作成したものです。川手昭二さんは筑波大学名誉教授で現在港北ニュータウンにお住まいです。日本住宅公団港北ニュータウン開発事務所長を務められ、横浜市北部に広がる農村地帯における「住民参加によるニュータウンづくり」を 20 年余りかけて実現されました。

【94歳でお元気な秘訣】

●特別、元気っていうふうには思ってないんですが、普通ですね。

●どこも痛いところもありませんから。気持ちいいですよ。 

●(健康の秘訣は)歩きでしょう、散歩でしょう。とにかく一日 7,000 歩以上は歩くというのを、念頭に入れています。どこを歩くかは、その日の気分によりますが。今日はかみさんにどこを見せてやろうかなと思いながら。 

●(緑道を)かみさんに威張りながら(一緒に歩きます)。(笑)自慢するんです。

 

【港北ニュータウンの緑道の充実】

●(緑道の充実が特長)でしょうね。たぶん日本で最初に、そういう設計から始めた。それまでの都市計画はだいたい道路計画から始めるんです。他のニュータウンは幹線道路を決めて、その中に近隣住区をはめ込んでいく設計をするんですが、港北ニュータウンは第一着手が、緑道計画から始めました。他のニュータウンと違って、近隣住区をつなげていく。つなげる手段として緑道を使うという、これまでに無かった設計の仕方です。 去年 6 月に大臣から感謝状をもらいました。表彰状じゃなくて感謝状。「新しい開発手法を開 発し、新しい都市計画の分野を作ってくれてありがとう」という。

●(港北ニュータウンの緑道は)気持ちいいですよ。実に気持ちがいいです。 

●(緑道を歩いていくと学校に着く。)そうして緑道沿いに近隣住区を計画を設計すると、子供が楽しみながら学校に行って帰ってくる。道草しながら歩ける通学路にもなるんです。帰ってから家を飛び出ても緑道沿いで遊ぶという環境。

●(緑道を歩いていくとショッピング街)それはね、緑道を作っておけば、家族などが歩きますね。歩いて行ったあげく、どこかの地下鉄の駅前に行く、歩行者自転車専用道路です。歩行者と自転車だけが通る道、地下鉄の駅前から緑道まで行ける道を、各地下鉄駅前に 1 本必ず整備するようにしました。駅に行こうと思うと緑道をちょっと歩いてから幅広の歩専路を歩いていくと、駅に着く。歩専路沿いに小学校中学校を貼り付けていくと、子供たちはほとんど車の危険がなく通学できる環境になります。 

●(港北ニュータウンのポイントは緑道)ですね。それから、地下鉄から緑道につなぐ幅広の歩行者自転車専用道路です。

 

【港北ニュータウンの建設へのかかわりの経緯】

●(港北ニュータウンは昭和 40 年ごろに当時の飛鳥田横浜市長が計画を発表。首都圏に働く人がどんどん集中)年間 29 万人、東京圏に集まったんです。

●(多摩ニュータウンの開発に)偶然、手掛けることになっちゃったんです。大学院から公団に入りたての頃。下積みで何もさせてもらえなかったんですが、そのうちに多摩ニュータウンを扱うことに。それも偶然。

●私の先生は、東大の都市計画の高山英華先生。日本の都市計画の代表みたいな人だから、その先生から一言声をかけられると県にしろ市にしろ公団にしろ受け入れてくれるんです。僕はたまたま高山先生から「何か面白いことをやれ」と言われたので、航空写真で空き地を見つけて、狙いをつけたものを現地に行ってどれくらいの空き地かを調べるという修士論文を書いたんです。150 例くらいの場所を任意で選んで調べると、東京都の空き地がだいたい推論できると。そういう論文を書きました。それを一番使うのはどこかというと、公団だろうと。公団は空き地に建てますからね。おまえは、東京都の空き地に建てる公団に行けと高山先生に言われて「わかりました」と、行くことになったんですよ。

●僕が大学院の 5 年目に、どこかに行かないといけないという時にできたんです。これはいいと 高山先生は僕を公団につっこんだわけですね。

●昭和 37 年に公団が多摩ニュータウンをやることになり、その都市計画決定の手続をやり、昭和39 年に新住宅市街地開発法という法律で作ることにした。その法律を扱った人が誰もいないもんだから、「おまえいろいろやってきたんだから、行け」と多摩ニュータウンの計画課長で行かされた。計画課長は「用地をどう買収するか」「買収した所の代替地をどうするか」といったことまで取り仕切るから忙しかったんです。 

●(港北ニュータウンへ転勤したときは)特定地区開発室長という名前でした。本部長直属の役職を与えられた。横浜市が地元説明するのをずっと傍聴して、決まったらただちに仕事に取り掛かれるようにという任務を持った室長なんです。地元説明を全部黙って、発言することなくメモを取り続けた 2 年半ですよ。

 

【住民参加のニュータウンづくりの工夫】

●それまでは「住民参加による都市計画を横浜市がするんだ」と宣言したんですよ。地元は「じゃあ住民参加なら、住民参加組織でやれ」と責められて、飛鳥田さんが、区長を委員長にした対策協議会を作った。地元の町内会・連合会長さんが委員になる。それをどう進めるか。横浜の全局長が参加する。港湾局長を除いて、全局長がニュータウン建設協議会をやる時には参加する。質問が出たらすぐ答えなくちゃいけない立場。僕は「公団がやれ」となったらすぐやらないといけないから、発言権が無く、黙ってじーっと聞き続けた 2 年半ですよ。それはとってもタメになりました。皆のやりとりを。 

●すごかったですよ。(住民は)ほとんど反対でしたからね。 

●乱開発とはどういうことかというと、鶴見川があって、後背地があって、川の周りだけが水田で、水田沿いに農家と一般住宅が並んでいる。裏山は薪炭林で、薪炭林のための細い道があるんです。集落の後ろ、薪炭林の道沿いに密集した家ができ始める。そこの人たちは「洗濯水と浄化槽の水」を農家のほうに流してくる。農家にとって大変だった。水田がめちゃくちゃになっちゃう。なんとかしてほしいと横浜市に陳情があった。横浜市が「まとめて面倒をみましょう」と答えて。だから住民苦情の窓口は横浜市の都市計画局ではなく農政局だったんです。 

●まず、「港北ニュータウンの設計は公団に任せる」と横浜市長が言ってくれました。横浜市は「公団に全部任せると言っても、公団がどんな設計するかわからないじゃないか。設計図を持ってこい」と市の事務局が言うんです。認められたものを地元に説明。そこから住民参加が始まるというのが市当局の考え方だった。

僕は、住民の意見を設計図に取り込んでこそ住民参加だと。公団が設計図を書けと言うなら、公団がじかに地元の意見を聞いて設計します。横浜市の言うことをいちいち聞きません、と。それでいきましょうよと言うと、飛鳥田市長が OK と言ってくれた。そこから地元の意見を聞いて設計する方向に切り替わったんです。

でもそれは大変なんですよ。最初は住民のところに行って「どんな町にしたいですか」と聞いても、農家はどんな町にしたいかなんて考えたことがない。「いい町にしてくれよ」くらいしか出てこない。「案を見せろ」と言うから、「案を見せたらチェックしてくれますか?」と。横浜市の OK が出ていない設計図を公団が書いて、地元に持っていって皆で協議してもらう。道路計画などが決まっていき、全員の取りまとめができてから横浜市に OK を取りにいくという手順に変わっちゃいますよね。

その間、横浜市はイライラしながらも地元に入れない。地元と私たちが、工区ごとに設計の突き合わせをした。横浜市を延々と待たせるんですよ。待たせて決まったものを横浜市に持っていくと「公団が勝手にやりやがった」とそれぞれ難癖を付ける。難癖を付けられて、とにかく大変な目に遭うんですよ。

●住民の意見は、計画的ではありませんからね。

●それを計画論の上に並べ替えなきゃいけない。住民が勝手に言ったものと,公団の計画案をもとに、全体のトータルな基礎構造を考えたうえで、地元の意見に従って基礎構造を切り替えて設計し直していく。その設計はものすごく難しいんですが、私たちは方法を作った。その方法で作り替えた。その方法で良かったかどうかをグリーンマトリックスの表でチェックしながら仕事をしていった。それで一番合理的なものができましたと、地元説明に入る。その時のチェック表が、グリーンマトリックス表なんですね。

●横浜市が 2 年間、地元説明をやっている時に僕は傍聴するだけだった。その時にメモを取っていて、それが KJ カード(川喜多二郎さんが開発)。

●あれは社会学の本ですが、その中からプランニングで使う方法を編み出したんです。KJ 法をプランニングにしていく手法を作った。やったものを皆で。道路の専門家や下水道の専門家など専門の技術者が集まって、KJ 法で整理した考え方の上に組み立てるという作業を公団でやったんです。

●その手法に対して、去年 6 月に建設大臣から感謝状をいただいた。新しい都市計画の方法を編み出してくれたという感謝状。

 

【グリーンマトリックス】

●グリーンマトリックスとは、自分が設計したものが最も効率よくできているかをチェックするための表なんです。友達と鬼ごっこで遊ぶとか、近所の人と買物に行くとかいう「行為」を、どの場所を使ってどういう行為をするだろうという表を作る。コミュニティの奥さんが買物に行く時に、1 人ならばどこを通るだろうかと。近所の奥さん同士が好きなコースを通って買物に行く。そのコースはどうやってできるだろうかと。といったことを、いちいちチェックする。表を作って考えていくんです。大変ですよ。

●公団の事務所では間に合わないので、KJ カードができたら葉山にある親の別荘に所員を全部連れて行って寝泊り。徹夜ですよ。かたちになったら事務所に戻って本格的な設計作業に入る。

●(グリーンマトリックスは「みどりを保存する」「ふるさとを偲ばせる」「安全な町」「高い水準のサービスが得られる」 4 つのものが、大きなマトリックスになるということ)なんです。

●それだけじゃなく、それができたら今度は公団事務所に 100 坪くらいの掘立小屋を作りまして、その頃の有名な設計事務所の所長に電話して「おたくのトップクラスの職員を 2 人ずつ公団に派遣してくれ」と。集まった設計事務所職員を、公園を設計する班、コミュニティ計画を作る班に分けて公団の職員を配置して、設計させるんです。この部屋の半分くらいの大きな製図板に皆で集まって設計図を書く。20 枚くらい並びましたかね。30 社くらいのコンサルタントのトップクラスが集まって公団職員とグルになって一緒に設計したんです。いい設計ができたところは、そのまま発注。今じゃそんなことやったら大変ですけどね。当時は競争入札じゃないですから。いい設計をしたら、作っちゃう。

●夢中で一番いい設計をすれば、自分たちで設計したものがかたちになるし、工事も受注できる。工事を取りたい一心で、とにかくいい設計をする。

●(優秀な設計家が集まる前に住民の声を徹底的に聞いたのが港北ニュータウンの良さ)です。

 

【住宅公団から筑波大学への転身】

●(昭和 53 年、住宅公団から筑波大学の教授へ転身の)いきさつはさっぱりわからなくて。都心にある東京教育大を筑波に持っていくという流れがあり、その中に教育大にはなかった新しい学科を作る。都市計画学科を作ることになり、そこの教授を誰にするかを高山先生が決めることになって。高山先生がいろんな人を推薦するんだけど、筑波なんて行くのは嫌だと都市計画の先生が皆拒否しちゃった。ひとりもいなくなっちゃった。そしたら突然、高山先生から「お前が筑波大学に行け」と命令が下りてきたんです。(笑)

「え?行くんですか?」「おまえが行ってくれないと、筑波大学に都市計画学科ができない。都市計画学科を作る機会が失われるから犠牲的精神で行ってくれ」と。先生から命令されたら仕方ない。突然、行くことになったんです。

●社会工学という学問は無かったんです。社会学科とか、社会はどういう仕組みで出来ているのという学問はあったんですが、社会をどういう構造で作り替えていこうかという学問は無かった。社会工学とは、社会を望ましい構造にするためにどうやって作るかを考えること。今までに無かったから、「やる」という人がひとりもいなかった。都市計画はなんとなく社会の生活の仕方を仕組めるような組織が法律としてあるんだし都市計画でいいんじゃないのということで、都市計画学科を作ることになったんです。

●抜擢というか命令ですよ。(笑)皆から「川手が敵前逃亡する」と言われたんですが、「敵前逃亡じゃないですよ、恩師に言われたから行くんですよ」と。新しい都市計画家を育てることが 任務だと思うし行きますと言うと、「おまえは必ず戻ってくるか」と言われて「戻ってくるところがあるかわからないじゃないですか」と言いましたら、退職金を置いていけと。退職金を地元に取られて筑波に行くんですよ。半年したら「川手さんの退職金で買える良い土地があるから買っておくよ」と電話があったんで、「どうぞ、よろしく」と。(笑)地元で帰ってくる場所を決めてくれちゃったんです。

●ここに立ってみると、周りに一軒も無かった。野原の中に一軒家を作ったんです。

●かみさんに自慢できます。「いいだろう?」と。 

●(かみさんも)「いい」と言いますよ。 

 

【ニュータウンの課題】

●(ニュータウンのさまざまな問題の)いい解決策というのは、フィジカルプランではあまり無いんじゃないですか。具体的な施設計画ではね。利用する人のトラブルが問題ですからね。できた施設で起きるトラブルを解決する方法として、町内会があるんです。町内会は、はじめは自然にできる。うちがはじめに建った頃は 近所にうち一軒だけしかない。生ゴミはしょうがないから自宅の庭に埋める。燃えるゴミは、市 の焼却施設へ持って行っていましたよ。家が何軒か建ってくると、町内会を作ってゴミ捨て場を 決めたり、夜が怖いから電灯の位置を決めたり。そのかわり電気代は町内会で払うから区役所に「電灯を作ってくれ」と頼む。いちいち区役所に頼むのは大変だから、町内会レベルで出来れば 一番いい。今は、町内会の下に班があって、そこでいろいろ決まっている。順番にゴミ捨て場を移したり。そういうことをやっていくのが、人間社会の工夫の仕方。皆、知恵を持っていますから。その知恵を働かせるようなインフラを整備すれば、あとはどうでも妥協案を出せることになります。 

●(隣近所の住民同士で話し合ってやっていくこと)を「コモンズ」と言っています。「コモンズ計画なんだ」と。コモンズ計画の時代に入ったと、都市計画学会誌 12 月号の特集にもなっています。 

●もともとね、タワーマンションの中に幼稚園を作ったらいいという案が、昔からあるんです。コルビュジエも、その案。小学校が入ったタワーマンションを作って、その周りを、緑地にする。高速道路を緑地に走らせたらいいと。これがコルビュジエが考える「輝ける都市」という都市計画です。

●(現実はそうは)いきませんね。そういう話ができるのはフランスだからですね。貴族が土地を持っていますから。日本の場合、大きな面積ではやれない。日本では難しい。たまたま空いているところに建てちゃう。乱開発タワーマンションなんです。フランスでは、計画的なタワーマンションが可能になる。

 

【まちをつくるとはどういうことか】

●教育でやったほうがいいと思いますね。町を作るのではなく、できあがった町に新しいコモンズを作る。素晴らしいコモンズを作るには、どうしたらいいか。そういう勉強を、中学や高校でぜひとも教えてほしいと思います。コモンズ(近隣関係)。お互いのね。たとえば、うちの庭を独占しなくていい。皆入ってきていい。勝手に花を植えてもいい。(笑)楽しいじゃないですか。そういう文化を作る。コモンズ文化を作ることが、次の時代だろうと思うんです。今は孤立していますからね。それを広げてコモンズというかたちで、お互いの私有物をなかば明け渡して、その代わり人の私有物を利用させてもらう。そこにいい生活環境ができあがる。そういう時代に入っていくんじゃないかなと思います。これからはコモンズ計画に奮闘する 20 年、30 年という時代に入るんじゃないですか。

●教育で、地域の人たちが、いいコモンズを作っていく。(それが、これからのニュータウン作り。)

 


【聞き手である林昭利ディレクターのコメント】

 

港北ニュータウンに移り住んだのは8年前です。それまでは多摩ニュータウンに住んでおり、オールドタウンと化した多摩や千里ニュータウンの再生について深夜便で取り上げていました。偶然、港北に住むこととなり日々緑道の散歩を楽しんでいました。また、退職して時間があるので地域にお役に立てることはないかと子どもさんに本の読み聞かせを始めました。

そんなことをしているうちに”ブックカフェ”という素晴らしい活動をされている江幡千代子さんに出合うことが出来ました。江幡さんの子どもにかける夢や地域コミュニティを作ろうとする情熱に出会い深夜便にもご出演いただき大好評でした。川手昭二さんは江幡さんとの出会いがもたらしてくれました。

50年も前に”住民参加の街をつくる”ことを具現化した先生の見識と業績を記録しておきたいと思いました。取材、放送が一段落して、先生が造ってくれた街を大事にして、さらに住みやすいタウンにしていこうという思いを強くしています。都筑には素敵な方が多いですね。